ここはしがない小さな港町。
日が沈めば酒場に集まり一日の疲れを癒す。
音楽、喧騒、活気をつける激しいダンス。
今宵も名の知らぬ踊り子の舞をご覧あれ。
マーメイドダンス
*
赤い髪に緋い目を持つその青年は、町人と語り合っているうちに日が傾いてほとんど沈んでしまっているのに気づきました。
彼は天命を受けた皇帝でした。つねに己の国の領土を拡大するために諸国を回っている彼は、今日も情報を仕入れるために身分を隠して話を訪ね歩いていました。彼にとって話し込んで日が沈むことなど日常茶飯事で、今日もここで切り上げて宿屋に泊まろうと歩き出しました。
彼が酒場の前に近づいたとき、活気のある音楽とざわめきを感じてふとここで聞いた噂を思い出しました。
名前を名乗らず話すこともしない不思議な少年が、ここ最近酒場でダンスを踊り、酒場に訪れた客たちの娯楽となっているという話です。
昔はこの港町に人魚伝説があったらしい、まったく理論的ではないがもしや・・・と小さな期待を持ちながら、酒場に立ち寄ろうという気になった彼は、迷わずその足を方向転換することにしました。
ドアを開けるとカラリ、と取り付けられたベルが乾いた音を立てました。その来訪の音は中の喧騒によって余り意味をなしていませんでした。
*
入り口から入って正面の壁沿いにステージはありました。
ちょうど準備中だったようでもうじきに噂のダンサーを見ることができそうだ、と青年はカウンターの席におもむろに座り、つれづれに小さな舞台を見ました。
ステージの上には楽曲団と栗色のくせっ毛を持った小柄な少年が立っています。
あの特に変哲もない少年が噂の踊りを見せてくれるのだろうか?一見何の感慨も浮かばず、青年は目線を外しました。
それと入れ替わるように少年がアーモンド色の透明な目をまっすぐ青年へ向けていたことに、彼が気づくことはありませんでした。
*
何の変哲もない普通の少年、という青年の印象は演奏が始まってすぐに覆されました。
体の動きを邪魔しない程度に飾り付けられた衣装の下、少年のしなやかな両の脚はめまぐるしく難解なステップを刻みます。しかしその圧倒する程の舞踏のスピードだけでなく、大降りなターンや体のうねりは優雅さを持ち、少年の立ち位置も気がつけば大幅に移動しています。ぼんやり見とれている観客のすぐ前に立って少年がにっこり微笑めば、そのたびに辺りから拍手喝采が起こりました。
青年は感嘆の溜息をつきながら、己の認知を改めました。これは噂に値する。むしろ国中に噂が広まっても不思議ではないほどの美しい舞だ、と。
長らく皇帝の地位についていた青年ですらめったに目にすることもない域の芸術を少年は体現していました。
青年は少年の舞をありのままに表現できる言葉が見つからず、少なからず詩人として自負していた今までの己を恥ずかしく思いました。
*
「一緒に踊りませんか?」
直接心に響くような声でした。
一言も喋らなかった少年が話しかけてきたので、青年は目を丸くしました。
少年はそんな青年の反応がおかしかったのか、くすくすと小さく笑います。
笑いが収まると、状況についていけていない青年の腕を引っ張りながら二人はステージへ向かいました。
「ごめん、僕は・・・ここで踊るようなダンスを知らないんだ。だから」
「大丈夫。大丈夫だよ・・・僕にまかせて」
青年をまっすぐ見上げる少年の目は清らかで怜悧であり、不思議と自分の心の中をも見透かすことが出来そうだと青年は思いました。
*
「楽しかったよ」
青年が笑みを浮かべて心から云うと、少年は口を動かさずにっこりと微笑みました。
「よかった」
口には出してないけれど、青年にはそう喋った少年の声が聞こえたような気がしました。
*
青年の中での少年の存在は、日に日に大きくなっていきました。
またあのダンスを見たい。少年のことをもっと知りたい。もう一度自分に話しかけて欲しい。あの瞳で自分の中を覗き込んで欲しい。
皇帝である彼は己の立場を半ば忘れて港町から離れず、毎日酒場に通いました。
彼に話しかけるチャンスを掴むために。
そしてその日はやって来ました。
いつも少年は数曲か舞った後、何かに急かされるように足早に酒場を出て行ってしまいます。
引き止めようにも、従業員用の裏口から疾風のように走って行ってしまうので駆けても間に合いません。
青年は今日こそは引き止めて、せめて名前だけでも聞き出そうと裏口近くの席に座りました。
思えば、なぜそこまでして少年に近づこうとしたのでしょう。
あの時彼が暴走しなければ。
少年は今もささやかな娯楽を港町の片隅で提供し続けられたでしょうに。
*
ダンスが終わり、曲が終わり。少年がいつものごとく裏口へ向かって走っていきます。
青年はそれを見越して裏口の扉の前に仁王立ちになりました。
少年は青年に困り果てた顔をします。
「ごめんね、少しだけ話がしたいんだ・・・」
青年が話しかけても、少年は一言も話しませんでした。
ただ困ったように細い首を横に振るだけで、青年は苛立って少年の前に一歩踏み出しました。
そのとたん、少年は目もとまらぬ速さで青年を抜き去り、裏口から飛び出して行きました。
「待って!!」
追いかけようとした青年の腕を、誰かが掴みました。
それは少年のステージを支えてきたバンジョー弾きでした。
彼は片手でつばの広い帽子を弄りながら、青年に話しかけました。
「アンタは、あの先に見る真実に立ち向かえるのか?」
「何を・・・」
「無意味にあの子を傷つけるのは、アンタの傷にもなり得るってことさ」
「・・・知るもんか、僕は、彼の傍に居たいんだ」
「そうか」
彼はそう云うとあっさり掴んでいた腕を放しました。
青年は何がなんだか判りませんでしたが、追求するより少年の後を追う方が先だと駆け出しました。
「若いねぇ。・・・その手を決して離すなよ」
酒場に置いてけぼりのバンジョー弾きはにやりと笑いました。
*
青年が裏口の先に向かうと、そこは夜の海を臨む突き出た広場でした。
大きさからみれば小庭と表現した方がいいような広場でしたが、少年の姿は見あたりません。
落胆しかけた青年は、視界の隅で動く影を見つけました。
その影は苦しげに岸辺で蠢いています。
少年が海に落ちて溺れかけているのかと思った青年は、急いで駆け寄ろうとしました。
しかし。
「来ないで!!」
再び聞くことの出来た少年の声は、拒絶でした。
思わぬ少年の悲壮感漂う声に戸惑う青年でしたが、そんな彼を置き去りに少年は話し続けました。
「あなたにだけは、見られたくなかった」
(見られたく・・・?月影も朧で何も見えやしないのに!)
「でも」 (僕はわかっていた気がする。このときが来ることを)
少年の影は、笑ったように見えました。
大きな水音の後、少年は消えていました。月明かりに照らされたまま、青年は呆然と立ち竦んでいました。
少年が水に沈む瞬間、月に掛かっていた雲が過ぎ去り見えてしまったシルエット。
彼は・・・そんな・・・。
ふと少年が直前まで立っていた場所を見ると、キラリと光るものを見つけました。
人と違うその生き物の涙は水晶になるという。
彼の流したであろう、人魚の涙は月光を受けて悲しく輝いていました。

彼との不本意な別離を経てから、皇帝は人が変わったように諸国を練り歩きました。
人魚となる薬が存在することを知ると、彼は己の危険を顧みず肉体の限界ギリギリまで虎穴に入り、魂ごとぶつかるかのように材料を集めていきました。
水精の住まう湖の水、切り立った崖の断面にある海燕の巣、凶悪なモンスターのうろつくサバンナを一心に駆けていく皇帝を、仲間は制止することが出来ませんでした。
彼らは周囲から冷徹と蔑まれ生まれつき凍てついた心を持っていた皇帝が少年の前では唯の一人の青年になっていたことを知っています。
笑むということを知らなかったはずなのに、少年の前で柔らかな微笑みすらも無意識に浮かべていた皇帝を、どうして少年から引き裂くことなど出来ましょうか。
少年との突然の別離を悲しんだのは皇帝だけではなく、彼を思う仲間たちも同じでした。
青年は幼い頃から皇帝としての責務を全うしてきました。
逆をいえば、人としての当たり前の幸せを彼は体感してこなかったのです。
そしてそれを望むこともありませんでした。
一生を生きるのに機械のままでは哀し過ぎる。
彼が踏み出した初めての一歩を支えることに、彼らは誇りすら感じていました。
・・・彼らは、目的が達成した後の別離すらも薄々予期していてなお、皇帝のバックアップに貢献していったのです。
*
「・・・出来た」
「おめでとう、皇帝さん。ようやっと想い人に逢いに行けるね・・・ククッ」
「ああ・・・」
「しかし。・・・最初に言った警告は忘れていないだろうね」
「わかっているよ」
「・・・途中で引き返す・・・なんて選択肢はなさそうだねぇ。
アンタ、哀しいくらいまっすぐなんだな」
「どのみち、この感情を殺してしまえばそのまま僕は死んでしまうよ。
それなら海の泡になった方がましさ」
そう告げると、皇帝は薬師の前を去って行きました。
「感情を知った氷の皇帝は、最後に愛を手に入れて歴史から姿を消した・・・か。
せっかくだからお節介な吟遊詩人に詠ってもらいましょうかね。最後の恋物語を」
薬師は部屋の片隅に置いてあったリュートを手に取ると、久しく着なかったマントを纏い、足取り軽やかに城下の酒場へ向かっていきました。
*
海の底に位置する人魚の集落、そのひとつで毎日涙を流す人魚がいました。
少年です。
掟で成人の儀を迎えた人魚は少しだけ陸に上がることができたのですが、少年は初めて変化した脚を上手く動かせず座り込んでいた自分を親切にしてくれたバンジョー弾きになつき、普通の人魚よりも長めに地上に立っていました。
そろそろ地上での楽しい生活に別れを告げて故郷に戻らなければ、と思っていた矢先でした。
少年は恋をしてはいけない相手に恋してしまったのです。
毎日毎夜声をあげることなく泣き続けた少年の瞼は真っ赤に腫れ上がり、通りすがる全ての生き物に心配されました。
地上での悲しい出来事は時が経たない限りどうしようもない、と刺激することも出来ず、周囲はただ少年を見守るだけでした。
少年の恋が成立するのは、とても難しかったことを誰もが知っていたのです。
失恋の苦しみを少年が克服するほかないと、誰もが考えていました。
にわかに、少年の周囲が騒ぎ出しました。海の生命たちのざわめきが聞こえてきます。
赤くて美しいものが上から落っこちてきたよ・・・
珊瑚のようなでっかちでも硬いものでもないみたい・・・でも運ぶには大きすぎるよ・・・
赤い・・・?少年は猛スピードで動き出しました。
まさか・・・まさか・・・
果たして、そこにいたのは少年の愛しい人でした。
呼吸が出来ず苦しんでいるのかと慌てて青年を水面に引き連れて行こうとした少年を、青年は引き止めました。
青年には首に魚の鰓のようなくぼみが出来ていました。
それを見て少年はとても驚きました。
それは遠い昔に失われた知識、「人魚薬」の作用だったからです。
今もその薬が地上には残っているのかと吃驚しましたが、あの薬にはやっかいな副作用があることも知っていました。
副作用を思えば彼を早く地上に帰さなければ・・・そう思う少年でしたが、しかし再会できた嬉しさから、どうしても口に出せませんでした。
日が落ちるまで・・・それまではお別れしなくても大丈夫だろう・・・。
少年は切なさを含んだ微笑を、青年に向けました。
一日目は何も言わず、少年は去って行く青年を見つめました。
二日目は、さすがに引き返せない彼の体を思って、お別れの言葉を口に出そうとしました。
しかし・・・どうしても口から言葉が出てきません。
切なく眉をひそめる少年に、青年は判っているという風に頷いて、少年の額に唇を押し付けて去って行きました。
突然の口付けに呆然としている間に青年が去ってしまい、少年は気が抜けると同時に一日ぶりの涙が盛り返しそうになりました。
けれども、偶然にも青年に再び出会えた幸福をかみ締めようと、涙を流さないよう我慢しました。
そして・・・本来は訪れてはいけない三日目。
青年はまたも少年のもとにやってきました。
「どうしてっ!!?」
「三度薬を飲めば元に戻れないことは最初から知ってたよ」
「なら・・・なんでこんな・・・っ」
「泣かないで・・・お願い・・・」
涙を零す少年の頬に唇を寄せて涙を吸い取りながら、青年は話を続けました。
「僕は、君に再び出会えるために命を削って薬の材料を集めて回ったんだ。
皇帝として地上で暮らしていた頃は僕は国の領土を拡大するための機械でしかなかった。
けれど君と出会って僕は初めて人間らしい感情を持てたんだ。
君が居なければ、僕はまた唯の機械に戻るだけなんだよ・・・。
見てごらんよ、この左腕。
君に逢いに行くと言った僕にパーティの人間はことごとくシッペをしてきたんだよ。
君を長らく待たせた罰だってね」
くすりと一遍の曇りもなく笑う皇帝でなくなった青年に、少年はくしゃりと顔をゆがめて、ようやく泣き笑いの声を出しました。
*
歴代の皇帝の中でもっとも領土を拡大した年若き青年が姿を消して数年経った後、人魚伝説の残る港町では新たな噂話がたっていました。
それは満月の夜、人の寝静まる真夜中に詩人でもあった前皇帝に似た歌声が海から聞こえてくるというもので。
その歌声にはいつも美しいマーメイドダンスが伴っていたという伝説。
おわり。